大阪万博日本庭園

入社してから・・・
当時社長は谷藤正三氏でした。(京都大学、博士認定)
前北海道開発庁事務次官を経て日本大学理工学部教授(交通工学)をされた後、
セントラルコンサルタントの初代社長に就任された方です。
この方は土木工学会の重鎮で、学生時代から存じあげていました。

入社3ケ月後
「塚田君、来月から大阪支店に出向してくれないか?」といわれました。
「えっ、なんでですか?」
「実は弊社が大阪万国博覧会の日本庭園、その基本、実施設計を受注した。
君は確か大学時代排水施設の実施設計を卒業論文課題だったろう?
大阪支店に経験者が居ないから行ってくれないか?」
「日本庭園って造園設計ですよね、なんで排水設計経験者が必要なのですか?」
「いや、造園基本プランは建設省公園緑地課で基本設計修了済み、
あとは雨水流下処理だけだよ」

そんな訳で大阪支店出向、寝屋川にある会社独身寮に3ケ月位滞在の予定で赴任しました。
寮から扇町プールに有った公園緑地課の出先事務所に、
毎日出かけ設計作業を続ける事となりました。
当時は日本庭園が海外でもブームでした。
日本庭園の会場内配置は決まっていましたが、基本プランなど何回も作成検討されました。
池三箇所を設け各時代(平安〜現代)をテーマにした4箇所のゾーンに分け、
それぞれに池を配したデザインでした。
私の担当は日本庭園敷地内に降る雨水の排水。
そのまま池に排水すれば容易でしたが、
雨水は池には流下させないように設計しなければなりませんでした。
泥水を池に流さないで、つねに池の水が澄むように、です。
地表面高はデザイン優先のため山あり谷ありで排水勾配など無視、
樹木、草木、芝生下に埋設設計、著名な造園デザイナーの方が係っておられたので、
変更変更の毎日で所長に怒られ怒られ何とか納めました。
変更に次ぐ変更…巨匠とはこのような人達の事を指すのかなと思いました。

それらの作業が終了すると、
関西圏の仕事が次から次と受注し手がないから休む間もなくなりました。
「塚田君、矢作川河川改修実施設計を受注したから、打ち合わせ設計納品してくれ」
まるで大阪支店社員扱いです。

 

徳山旧海軍燃料廠

その作業が終わると、続いて、
「山口県徳山市に旧海軍燃料廠埋設されている。
当時の軍事機密事項だったので資料が一切ないのだよ。
各タンクの位置、規模、連絡通路、給油パイプ連結管布設等を地下に入り調査してくれ」
その場所には、地下に直径88メートル、高さ11メートル、
支柱270本貯溜量50万トンのタンク12基が埋設され、
各タンクの連絡給油パイプ、通路が張り巡り築造されているらしいのです。
「どうやって調査するのですか?戦後25年間の間だれも入ってないのでしょう?」
「いや戦後まもなく、少年がマンホールから下を覗いたら暗かったので、
新聞紙に火をつけ投げ入れた所充満したガスが爆発し、1人が死亡したらしい」
危険手当が当然つくはずの作業だと一瞬頭を過りましたが、手当ては勿論なしでした。
何せ土被り2メートル、巨大地下ドームが12基です。
当初図面は皆無と聞かされていました。
側壁厚は2メートルで、鉄筋代わりに鉄道レールが使用されていました。
当時は石炭から石油への転換期にあたり、本土決戦に備えた最大燃料備蓄基地でしたから、
聞けば戦艦大和もここで給油し南方洋へと出航したらしいのです。
調査していく中で、
「連結パイプが1本もない、誰が移設したのか。
タンクに原油、ガソリン類が殆どない。
戦後誰も入った事がないと聞かされていたが、おかしいぞ」
現場調査を一旦中止し資料調査を始めました。
戦後この地区(周南地区)は廃材、残油の争奪合戦、
また土地払い下げを巡り熾烈な企業争いが繰り返されてきた地区だったのです。
それらの資料は有りましたが、肝心の配置図が有りません。
「設計技士は与えられた仕事を、正確無比に完成し納品すれば良いのだよ。
余分な事に気を取られずにしっかり仕事をしなさい。君の悪い癖だよ」
耳元で上司の言葉が聞こえました。そして、作業に専念しました。

ろくにレベルも覗けない私が、作業員2人と地下に入り測量中の事です。
前に進んでいた作業員が、突然呻き声をあげて倒れました。
駆けつけるとあたり一面異臭が漂い、息が出来ない。有毒ガスだろうか?
違いました。
1基のタンクに、産廃業者がバキュームで回収したし尿をタンクに放流したため、
それらが滲み出てき異臭で倒れたのです。
駆けつけた私も同じく倒れ、残り一人がタオルを口に巻き私達を無事救出してくれました。
タンクに足を踏み入れるのが恐くて、慌てて飼ったカナリアが、
一度も役目を果たすことなく猫に食べられてしまった、その数日後のことでした。
後でその図面を基本図面とし、そのうちの1基を埋め立て徳山球場を建設、
公式戦にも使用され、多くの野球ファンを楽しましている聞き嬉しく思いました。

部長の父上は南雲中将


さて、お次…。
「おーい塚田君。
九州遠賀川で宅地開発が計画されたのだが、
是非現地事務所で寝泊りして、事前協議から作業をしてくれないか?」
「九州は良いですが、一旦本社に戻して下さい!
でないと、この勢いでしたら、ヘタしたら海外赴任しろとなりそうですよ。
だって最初は3ケ月位だと言ったじゃないですか。」
「それはそうだが、君は器用だから何でも安心して任せられる。頼めないかなぁ」
新入社員である事も忘れて、支店長に向かって言い返しました。
「評価は有り難いですが、約束は約束ですから本社に帰らせてもらいます」 
生意気だったなと、今にしては思いますが、当時は必死でした。
「それはそうだね、しかし実は、君の所属していた部が無くなり、
君の机中の書類等はダンボールに入れて保管してあるそうなんだ」
「そんな話しってありますか、こんなに頑張ってるのに、そんな理由では納得出来ません!
社員が帰る部署が無いからと言って、九州に行け!ですか?」
「まあそう言わずに、今検討しているから、結論はそんなに遅くならないよ。」

結果新しい部が本社に設けられました。その名は「水工部」。
…という訳で、本社より九州に出向となりました。
当然私の机は本社に用意されました。
その机は、出向中はアルバイトの学生用として有効活用されていたらしいです。


部長一人、部下一人の小さな部の始まりです。
部長は東大理工卒、技術士、河川工学のバリバリのエリート
(その後代表取締役副社長にまでなられました)
部下は、口はたつが、技術力は皆無の私。
部長の指導の元、様々な勉強をさせて頂きました。
後に少しは「水」の事を語れる様になったのは、その当時必死に学んだお陰だと思っています。

部長とはまさにヤジさんキタさん、色んな設計に携りました。
私がミスをし、後で部長が謝りに行き、帰社後そのミスを翌朝迄に訂正を命じられ…。
泣き泣き徹夜した事が何度も有りました。
ここで基礎から徹底的に勉強させられました。
よき上司に恵まれるとはこの事だったのでしょう。

部長とのエピソードは多々有ります。
その中の一つ、「皇居事件」。
これは、サントラルコンサルタント本社が赤坂から日本橋日本ビルに移転して間もなく、
青森県むつ小川原湖周辺基本調査を委託された時の事です。
湖の水深調査…
当時はこの周辺地区六ケ村はむつ小川原開発反対運動の真っ只中です。
漁船を借り上げ測量する事となり、測量会社の勧めで音波水深測定機なる物を購入しました。
その使用方法、正確度を試す為に、
日本ビルから近い皇居のお堀に二人で行き、機械を取り出し水の中に入れようとしました。

「おーい、おまえたち何をしているのだ!」
数人の皇居警察官が叫びながら近寄って来ました。
「今からこの機械のテストをしようと入れています、ただ水深を測るだけですが」
「そんな事は信用出来ない、何か身分を証明出来るものを持っているか?」
「名刺なら持っております」
部長が警察官に手渡すと、
「なになに、みなみぐも あきら、あんた部長さんなんか?」
「みなみぐも、でなく、なぐもと読みますが…」 
「なぐも?南雲中将のなぐもか?」
「はい南雲です、南雲中将は私の父ですが」
「えっ、貴方様は南雲中将閣下のご子息であらせますか。
知らぬ事とは言え大変失礼致しました。」
警察官は、直立不動で敬礼しました。

ここまでは笑い話しで済みますが、
彼が戦後荻窪に住んでいた頃近所の人達や、
戦争で遺族となられた方達から石等をぶつけられた話しに及ぶと、
全員うつむき無言です。
父を戦争で亡くし母子で細々と生活をしていた家族に、世間が戦争責任を問う…。
その苦難はいかほどで有ったかは分かりません。
そこで部長、みんなを見渡しこう言いました。
「父の最後については家族でさえ知りません。
自決について諸説が有りますが、海上でなく陸上で自決したと聞いています。
遺品は皆無でした。
息子である私が今言える事は、戦争は.いかなる理由が有ろうとも二度と起しては成らない。
父の苦汁の決断が今日どの様に評価されようと甘んじて受けます」

「南雲中将は私の父です」
警察官を前に毅然とした態度で語ったその姿は、
戦後生まれの私が会える筈も無い、部長の父上中将閣下が語っておられる勇士だ!
そう感じました。
身が引き締まると共に、なぜか心が奮えました。
またまた上司に恵まれたとは、この事を指しているのだ!と思った瞬間でした。

TDLの計画設計のメンバー

TDLとのかかわりですが、
当時千葉県企業庁が浦安沖を埋め立てて、住宅地分譲する計画が持ち上がり、
県及び漁業組合の猛反発で断念と思っていたところでした。
後になって何故だかわかってきたのですが、
オリエンタルランドが埋め立て後の造成地の払い下げを受ける事となり、
テーマパーク建設案が浮上、三井、京成が主軸となり計画が始まりました。 

ここで運命の出会いを果たしたのが、
三井のE会長、T社長、京成のK社長です。
彼らのの肝煎りで、計画案作成メンバーが決まりました。
なんとその中に最年少の私も選ばれてしまいました。
…と言うより人数合わせ、当然排水関連施設の設計メンバーとしてでした。
MK設計、CコンサルタントのJVで始まりました。
施主であるオリエンタルランドT社長はほとんど出社されず、
毎日なにをしているのかは、社員の人達も知りませんでした。
そして「日替わりランチ」のような変更に次ぐ変更、
いったい決定権は誰であるのかさえ分からない時もあり、
社長は何をしているのだ、との意見もあちこちで聞く程迷走状態でした。
後日分かりました。
TDL建設実現の為、毎日漁業補償で一軒一軒交渉し、そのために酒浸りだったとか…
ある意味凄いです。
当然ではありますが、一番やる気があった方でした。 

京成のK社長、三井のE会長、T社長に呼ばれ叱咤激励、 
いや、罵倒されて作業をしました。 
急きょウォルトディズニー社と提携が決まるや、
図面全てを英語にて変更作成しました。
決定迄の推移についてはあまりにも紆余曲折がありました。
…と言うよりも、違う世界に住む人達が画策していました。

出身校が同じだけで完璧な相互信頼を築いていた3人、
いや、4人(プラスワンは、S氏)。
私を可愛がってくれた、剛椀で暴れん坊で名高いS氏。
交渉の場で微動だにしない逞しさ、公言出来る話と出来ない話の見事な使い分け。
そんな人達との会議に出席する度に、行政と民間企業の凄まじい戦いを見聞きしました。
交渉の場で微動だにしない逞しさ、公言出来る話と出来ない話の見事な使い分け。
財界人の頭の中を見てみたいと痛切に思うと同時に、
世の中にはもの凄い人達がいる事を知った初めての経験でした。 

えーい、時効だから書いちゃえ…。
ディズニーに支払ったロイヤルティーは、当時では破格の〇〇〇億円でした。
そして、その技術集団の飛行機代宿泊代、全てこちら持ち、
毎回数十人近く集団で来日。
これから何年間この人達にお金を払って行く事になるのかと、
多分天文学的金額だろうな、と想像しました。 

でもその集団、凄く格好良かったです…。
その時の単純な感想でした。